しの吉日記

毎日の出来事や歴史について思うことあれこれ

道三茶碗

さっむいですね~(((( °_° ))))

しのき地方でも雪が少し積もりました。11月に初雪観測って54年ぶりだそうですね。

冬が冬らしく寒いのはちょっと嬉しいです。

 

信長公記』巻十(天正五年)

記事に「道三茶碗」という文字を見つけました。

 

中将信忠へ御名物十一種参らるヽのこと

十二月廿八日、岐阜中将信忠卿、安土に至りて御出で。惟住五郎左衛門所へ御泊り。

信長公より御名物の御道具、参らせられ候。御使、寺田善右衛門。

一、初花 一、松花 一、雁絵(かりのえ) 一、くさり 一、藤なみの御壺

一、道三茶碗 一、内赤盆(うちあかのぼん) 八種。(以下略)

 

道三といえば、曲直瀬道三(医聖と呼ばれた当代随一の医者)か斎藤道三くらいしか思い浮かばないのですが、斎藤道三遺愛の茶碗なんでしょうか(ただの妄想ですが)

ここまで考えて思い出すのは永禄12年の茶壷事件。信長本妻が信長に「あんたがあきらめないなら、ここにいる美濃衆全員で腹切って死んでやる!(超訳しのき)」と言い放って、信長が諦めたという道三の茶壷の一件です。

茶碗をどういう経緯かは不明であっても信長が所持していたから、おなじ縁(よすが)で茶壷も欲しくなったんですかね。

曲直瀬道三所有の茶碗らしいです。*1妄想は妄想で終わってしまった(´;ω;`)

→これですかね?

天正3年(1575)10月14日、69歳の時、織田信長を私邸に迎え、 正倉院に伝来した名香蘭奢待を信長から賜り、所持していた野洲井茶碗と鶉壷という名茶 器を献上しています*2

ちなみにこの道三茶碗は伝わっていませんが(本能寺の変前日の名物拝見にも出ていませんし)、銘を「美濃」という美しい高麗茶碗が残っています(重要美術品 五島美術館所蔵)。

美濃、という由来は不明だそうで、私の妄想は限りなく広がっていくのでした。

 

 

*1:新人物文庫『現代語訳信長公記』p304

*2:ツムラ・メディカル・トゥデイ2009年4月22日放送pdfファイルp3

生駒氏の菩提寺

2つの菩提寺

信長の側室生駒氏の菩提寺といえば小折にある久昌寺が有名ですね。

ところがもう一つ、生駒氏の菩提寺(生駒家宗女の母の菩提寺ということらしいですが)がありました。

曹洞宗安斎院・・・なんでも信長が清洲支配を始めたときには既にあったそうで、後に生駒家宗女の母の菩提寺になったとか(縁起など未確認でネットから集めた情報です。安斎院自体のホームページはなさそうです)。

奥野先生は信長室生駒氏の菩提所と書かれています。*1

くどいですが、寺の縁起を未確認なのでどちらが正しいのかわかりません。 

 

尾張安斎院宛判物写

其方居屋敷・寺領等、如先規申付上者、不可有相違者也、仍状如件

天文廿三             上総介

 十一月廿日            信長(花押)     

  安斎

其の方の居屋敷・寺領等、先規(せんき)の如く申し付くるの上は、相違あるべからざる者なり。仍って状件の如し 

(其の方の居住用の家屋敷・寺領等は従前の通りにすると申し付けたうえは、相違あってはならない。よってこの書状のとおり(安堵する))

 

一方 久昌寺は江南市にあるお寺。

生駒氏の家宗以降のお墓があるようです。もちろん家宗女(いわゆる生駒吉乃)の墓もここにあります。

元は

久昌寺の前身は、至徳元年(1384)この地の土豪林朝忠により禅喜寺を早創、その後、嘉慶元年(1387)寺号を慈雲山龍徳寺に改めています。応仁のころ、大和から移住した生駒家初代家広が先祖の冥福を祈るため、寺を再営し菩提所としました。*2

その後、家宗女(吉乃・仮)の死をきっかけにして寺名を久昌寺(きゅうしょうじ)と変え、現在に至っているようです。祀られているのは生駒氏のみ。ほかに檀家はいません。ある意味すごい。

さて、生駒氏の母上(吉乃・仮のお母様)の菩提所が上述のとおり安斎院にあるとすれば、これはどういうことでしょう。 ちなみに母上のお墓は久昌寺にも家宗と一緒の墓石があります(写真でみただけですけどね)。

もちろん信長は菩提所をふたつも三つも持っていますが、ただの無名の女性がなんでふたつも?というのが素朴な疑問です。

  • 1 何かの理由(安斎院と実家の縁が深かったなど)で家宗妻(もしくは家宗女)だけは菩提所を安斎院にも残した。
  • 2 元来は安斎院が生駒氏の菩提所であったが、生駒家宗女の顕彰のため?久昌寺を新しく菩提所とした。安斎院には生駒氏(妻か娘かの)菩提所であったという謂れが残った。
  • 3 その他・・・生駒家宗には先妻と後妻がいた、とか。

判物のとおり安斎院には寺領を安堵しています(生駒家宗女が側室にあがる前ですが)。「先規の如く」とあるので、残ってはいないが判物が以前にも出されていたと考えられます。しかし久昌寺には愛妾が眠っているのに一切の安堵をしていません。

久昌寺は生駒氏が亡くなったときに葬られたことになっていますから、信長死後に建立された、あるいは生駒氏の菩提所になった、という仮説は成り立たないかと思います。

不思議です。

安斎院に実際に行って確かめてみたいです。縁起なのか過去帳にちゃんと名前があるのか、はたまた墓所まであるのか、あった証拠があるのか。。。

小折と名古屋市東区は離れているのかな。行ってみたいなぁ。やはり百聞は一見に如かず、といいますからね。

 

*1:織田信長文書の研究 上』吉川弘文館・オンデマンド版39頁

*2:江南市HP「ふるさと江南歴史散策道」信長・吉乃コースより

初めまして

しのき美緒と申します。織田信長好きです。

でも学生時代に専攻したのは国語学でした。

もっと中世の言葉について勉強しておけばよかった。。。

信長について、その他歴史で気になることについて、書いていきたいと思います。

歴史や読書について、語りたいです<(_ _*)>

 

どうぞよろしくお願いいたします。