御ツマキ考(1)
『多聞院日記』天正九年八月廿一日条に
今暁惟任被歸了、無殊儀、珍重〃〃、去七日、八日ノ頃歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、
(今暁、惟任帰られ了んぬ。無殊の儀、珍重珍重。去る八月七日、八日の頃か、惟任の妹の御ツマキ死に了んぬ。信長一段のきよしなり。向州力落とすこと比類無きなり。)
早朝、惟任(光秀)殿がお帰りになった。特別の問題もなかった。めでたいめでたい。去る八月の七日、八日の頃か、惟任の妹の御ツマキが死んだ。(この女性は)信長の一際の「きよし」だという。光秀が力を落とすことはたとえようもないほどである。
(書き下し文と訳はしのき)
という文があり、この御ツマキなる女性をめぐっていろいろと論考がなされているようです。簡単に論点を整理すると。
1 勝俣鎮夫氏が「織田信長とその妻妾」*1で、御ツマキに言及。
- 明智光秀には御ツマキという妹がいた。妻姫という字をあてている・らしい。(要確認)
- その妹が七日か八日頃に亡くなった。
- その妹は「信長一段ノキヨシ」である、すなわち、信長の一際の「気好し」、寵愛されていたものだった。
- それゆえその妹は信長の愛妾として信長の意思決定に何らかの影響を与える存在であった。
2 勝俣氏以前には高柳光寿先生が人物叢書『明智光秀』のなかで、
(前略)『多聞院日記』の天正九年八月二十一日の条に、去る七-八日のころ、光秀の妹の御ツマキが死んだとある。この御ツマキというのは妻木某の妻ということであろう。このころ光秀は眼病で灸治のため奈良に行っている。*2
と言及しているのみである。
3 1を受け、池田裕子氏が人物叢書『織田信長』のなかで側室だったと書かれ(この人物叢書は立ち読みしかしてないのではっきりと覚えていない)、その後御ツマキ側室説はほぼ定着している観があった。
4 ところが最近、永田恭教氏が新書でかなり丁寧な論考を加えられている。ただ新書のためところどころよくわからないところがあるのは残念(ていうか、わたくしが前提となっている諸氏の論文を読めばいいんですね、はい)
「五師職方日記抄」天正六年十二月八日条に「万仙ハ一段、信長殿、儀ヨシニシテ」と、記述されている。信長の側近である万見仙千代重元が有岡城攻めで討ち死にした記事である。同様な事例であろう。「ヨシ」をお気に入りと解しても、側室とするのはいかがであろうか。またツマキの前に「御」がついていることから信長側室説を補強するものとする見方もあるが、「多聞院日記」は写本であり、「御」と「ツ」が古文書上では同じような字体なので、二回同じものを書き誤ったものであろう。*3
そして、キヨシ=儀よし、という新説を打ち出された。また側室という位置づけについても疑問を投げかけられている。
やはり同じ用例があるというのは強みであり、万見仙千代は男であるにも関わらず、儀よしが使われているのであるから、一足飛びに側室へ結びつけることはいかがか、と言うことだろう。
ざっくりと概観したが、現在、論点は「御ツマキ」と「キヨシ」の解釈に絞られているように思う。それについて自分なりに思うところがあるので、言及しつつ、御ツマキという人を考えてみたい(続く)
ところで「五師職方日記」とは、いかなる資料でしょうか。国会図書館のオンラインデータ検索で探したんだけど見つけられませんでした。どなたか教えてくださいまし(´;ω;`)