糸魚川日帰り旅行1
一年数ヶ月ぶりの更新になりました(;´д`)
タイトルも『しの吉日記』に変更。
歴史ばかりではなく日常徒然も含めて綴っていこうと思います。
糸魚川へ行こう!
糸魚川(いといがわ)は新潟県の端っこにある市です。どうして糸魚川?
それは、翡翠をググっていたときに偶然目に飛び込んできました。
「翡翠文学賞」作品募集/糸魚川市(糸魚川市のホームページに飛びます)
翡翠文学賞に応募したい
賞金も素敵ですが、わたしは翡翠が好きなのです。やはり日本の石といえば翡翠。美しい緑色は深く神秘的なとろりとした緑色です。糸魚川市は翡翠の産出する市として(愛好者のなかでは)とても有名。
その翡翠と沼河比売(ぬなかわひめ)について作品を書いて出したい。しかし、その場所を知らないと全く書けないので……行ってみたい!!
東京から糸魚川へ行くには
上野から北陸新幹線で一本でいけます。糸魚川に停車するのは『はくたか』のみです。1時間に1本の割合で運転されています。
わたしは9時32分発のはくたか557号で糸魚川へ向かいました。
滅多にしない一人旅。グリーン車奮発。自動券売機で買えるのでラクちんです。
駅についたら
定刻通り11時38分に糸魚川駅につきました。
2時間6分で到着。近い!
情報をチェック
到着したらまずは行きたい場所を教えてもらいます。
糸魚川駅の改札は1箇所だけで、通路にでるとアルプス口(南口)と日本海口(北口)に分かれます。その両方に観光案内所がありますが、おすすめは日本海口にある案内所です。たくさんパンフレットが置いてあって親切に説明してくれます。
もらったもの
トイレ重要
未知の場所ではほんとに重要。なるべくきれいで近代的なトイレを使いたい!
この南口の観光案内所のトイレが新しくてとってもきれいでした。おすすめです。
平日ご飯事情
すっごい失敗。平日で観光客もほぼいなくて、気軽に入れそうなお店もあまりないのです。
工工工エエエエエエェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェェエエエエエエ工工工
しのき美緒魂の叫び。B級グルメのなんとか焼きそばの店が辛うじて北口の観光案内所の一階(翡翠王国館という名前が)で営業していましたが、パンとコーヒーのお店は臨時休業みたいでした。人もいない。やる気なさげ。。。つらいわー。結局夕方5時までお昼食べませんでした。刺身とか食べたかったんですけどねぇつД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚
2に続きます
斎藤道三・義龍・龍興
昨日のブログにも書きましたが、『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上』中世武士叢書29 戒光祥出版 2015年9月10日初版初刷を読み、ざっと読み終わりました。
別伝の乱についてはわかったようなわからないような。
どうして義龍は妙心寺派に属する快川紹喜ではなく、あらたに京の妙心寺本山に依頼して別伝を派遣してもらったのか。→本書p147で「そこで義龍はこのことを長良崇福寺の快川紹喜に相談すればよかったのに、どうやら京都妙心寺の長老亀年禅愉(祖かん国師)に相談したらしい。」と斬って捨てている。いや、そこは論点でしょ、やっぱり。
別伝の行おうとしたことはいったいなんであったのか、義龍はどうして別伝に深く帰依するにいたり、朝廷や義輝まで動かして別伝を正当としたかったのか。
疑問が解決しませんでした。
とにかくその「別伝座元悪行記」なるものをみないとなんとも・・・
それから著者は非常に快川紹喜に対して思い入れが深く傾倒しているようだが、それが論考にも如実に現れている。むしろ、前述のとおり義龍が快川紹喜ではなくわざわざ妙心寺本山に依頼したことを重くみたほうが義龍の内面に迫れるのではなかろうか。
個人的には、申し訳ないが快川紹喜という僧侶は非常にカリスマがあったとは思うのだが、直情径行型でかつ才知をひけらかすような感じがしてイマイチ。。。三条夫人の葬儀のときの偈や雪渓宗梅大禅定尼の一周忌での偈、絢爛豪華な、白髪三千丈的な目もくらむような言葉が連ねられている。苦手だ~。俺頭いいんだぞ、みたいな。。。ただの印象です。
濃姫について、鍋との混同だという山田寂雀氏の説を紹介し、「この場合、養華院は架空の法名ということになる」とする。本書p231
また著者自身は、道三の娘の一人が土岐頼充夫人であるといい、土岐頼充死後(道三が殺した)1年で今度は織田信長に嫁がされた、すなわち帰蝶(濃姫)であるという。土岐頼充夫人であった頃の帰蝶は、頼充とともに住んでいた大桑城で快川紹喜と会っていたであろうという。
すなわち雪渓宗梅大禅定尼と称する女性の一周忌が天正二年一一月に甲斐で快川紹喜によって行われており、偈の文言に「岐陽太守鍾愛の」とあることからこの女性を濃姫と断定し、濃姫の没年を天正元年十二月とする。本書p232~p235
帰蝶は13歳で最初に嫁ぎ、その後出戻ってきてすぐに15歳で信長に嫁いだということになります。
著者の大胆な推論としか言いようがない。
最後に、史料解釈で明白な誤りがあったので、指摘しておきます。
「新見文書」という文書からの引用らしく書き下し文が書かれていて、その解釈が載っています。差出人は織田信長。充所は秋山善右衛門尉。日付は十一月二十三日付。本書p201
先度は陣中に御使、本望に候、仍ち思し召しに寄らざる申し事に候といえど、大鷹所望に候、誰々所持については御調法候て、御意に懸けらるべく候、猶、埴原新右衛門尉申すべく候、恐々謹言、
(後略)
【現代語訳】
この前は、陣中に御使者をいただき、御礼申し上げる。思いのほかのこと、大鷹を送ってほしいということで、誰かが所持しておれば入手して御送りするつもりである。なお、埴原新右衛門尉から詳しく申し上げるのでよろしく。恐々謹言。
著者は武田信玄の意向を受けて秋山善右衛門(後の虎繁)から信長へ便りがあり、その内容を「大鷹が欲しいので入手できれば送って欲しい」というものだろうと推察し、この文書を信長から信玄への返事として解釈されている。
が。そうではない。信長が信玄におねだりしているのである。敬語を検証していく。
- 御使→秋山もしくは信玄からの使いなので御をつけている。
- 思し召し→思うの尊敬語。信長が思うのではなく、相手を敬う。すなわち、秋山ないし信玄への信長からの敬意。
- 申す→言ふの謙譲語。信長の動作。
- 所望→敬意なし。信長の動作。
- 誰々所持については→敬意なし。判断保留。
- 御調法→お調べになって→相手の動作なので御がついている。
- 御意に→これも相手の意思、気持ちだから御をつけている。
- 懸けらるべく→懸け(カ行下二・未然形)・らる(助動詞・尊敬・終止形)・べく(助動詞・適当・連用形)
訳しなおすと、こうなります。
先日は陣中へのお使いをいただき、実にありがたいことです。そこで(そちら様としては)思いもよらない(不躾な)申し出ではありますが、大鷹を頂戴したいのです。誰々が持っているかはそちらでお調べいただいて、きっとお心に懸けていただきたく存じます。なお、埴原新右衛門尉が詳しく申し上げます。恐々謹言。
けっこう、信長ってオネダリするよね。うん。上杉にも鷹をくれ~って言っていたような気がする。調略の一種で、こう擦り寄っていっているつもりなんでしょうかね。
かなり大胆な本。概説書として読むには向かない。史料が一級史料から江戸時代に成立した眉唾ものまで同列に扱われていて、なんとも。
戦国スピリッツ
御ツマキ考遅れております。はい、まだ資料が揃いません。最近発見された「戒和上昔今録」という史料をぜひとも見たいし、できればここに書きたいと思っているのですが、まだ揃えられていません。しばしお待ちください。
はるか石川県にあるそうで、いつ見に行けるかわかりません。とりあえず春くらいには行きたいと思いますです┌┤´д`├┐
それで戦国スピリッツ。
いえ些細なことなんですけれども、『信長公記』首巻「今川義元討死の事」中の表現に、
今度分捕りに、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ヶ度もきらせられ、信長不断さゝせられ候なり。
という箇所があります。*1
この度の戦での分捕りで、(今川)義元が日常差していらっしゃった秘蔵の刀で名刀の誉れ高い左文字の刀を(信長は)召し上げられ、何度も試し切りなさり、日常差していらっしゃった。(超訳:しのき)
というほどの意味です。
何度も試し切りなさり((((;゚Д゚))))
戦国時代の試し切りはもちろん、巻藁や畳を斬るのではありません。人間の胴体をスパンと(スパンかどうかは知らないけれど)何箇所も斬ります。
桶狭間の決戦のあとで、義元の佩刀を分捕って、そこいらへんに転がっている死体を思いっきり斬って「すっげ~、これ歪まない。やっぱ左文字すっげ~」とか言っている27歳の(多分、泥と血にまみれた)笑顔の信長が彷彿とされます。
さりげなくさらりと書いてあるけれど、けっこう戦国らしく怖い描写ですよね。
この刀に信長は「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」
と刻みます。
今日も雑記と妄想になっちゃいました。木曜日にまた国会図書館に行ってくる所存です。うまく記事がみつかりますように~。
美人姉妹
信長の妹に市姫と犬姫というふたりがいることはよく知られていますが、二人共大層な美人であったといいます。
市姫は波乱の、犬姫は比較的安定した生涯を終えましたが、二人共肖像を残しています。
御ツマキの「御」を調べるための古語辞典、口絵などを見ていましたらこのお二人が。
編者は知っていて並べたんでしょうか。
あんまり元の絵に似ていませんが(笑)ドウシテコウナッタ
きっと、衣装の解説だから顔には力を入れてないんですね。そうに違いない。
犬姫(細川昭元夫人)の元の絵はこんな感じ。
面長で顎が細くて目が切れ長、鼻は大きめで高い。眉を生やしたら信長になりそうです。ここまで似ていると同腹だろうな、と勝手に思います。ほんとに相似形。
市姫(浅井長政夫人)は。この方はあまりに有名なので画像は省略。市姫のほうが顔は整っているけど、気位高くて勝気そう・・・。輪郭は信長に似ているけれど、パーツはあんまり似ていないように思います。
話は飛躍しますが、女性はあぐらか立て膝でした。正座するようになったのはおそらく江戸時代に入ってから。考えてみればあたりまえですよねぇ。日がな座っているのに、正座なんてできないですよね。せいぜい一時間から一時間半が限度でしょう。
わたしは10分もできません。
辞書を眺めながら、そんなことを考えました。それにしてもいつごろ描かれたんでしょうね。もう少しちゃんと調べてみようかな。
御ツマキ考(2)
昨日の続きです。ここで、「御ツマキ」の読み方と、「キヨシ」の意味が問題となっているということでした。これについて私なりの考えを書いてみたい。
今暁惟任被歸了、無殊儀、珍重〃〃、去七日、八日ノ頃歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、
1 御ツマキについて
結論から言ってしまえば、御を接頭語と解して「御つまき」と読むのは間違っている、と断言します。たとえば、伊勢の御、などという平安時代の女流歌人の呼び方を思い出してほしい。これは敬称です。辞書を引けば解決する=既に、先人によって解決済みの問題。
「御」(ご、お、おん)で辞書を引きます。
漢和辞典は角川の新字源をあたりましたが、接尾語の用例がないですね。漢語的な使い方じゃないってことでしょうね。なので、古語辞典を引きます。三つ出ています。
ご-【御】[接頭](漢語の名詞の上に付いて)尊敬の意を添える。「―所」「―前」など。
-ご【御】[接尾](人を表す語について)軽い敬意を添える。「母―」「叔父―」「嫁―」など。
ご【御】[名](「・・・の―」の形で)女性に対する敬称。例「淡路の―の歌に劣れり」
さていかがでしょう。上から順に①、②、③と便宜上番号を振ります。
今まで散々議論されていて、おかしいと言われながらも読まれている「御ツマキ」は①の用法ですが、ツマキは漢語じゃないんですよね。姓です(女性の場合は実家の姓で書かれることが多いですから)。このことから御ツマキは誤読だと考えていいと思います。御織田、御明智・・・言いませんよね、言わないってば。
②③は、どちらでもよさそうですが、形からみて③かなぁ。
光秀の妹への敬称ですね。そんなに重い敬意ではありません。この場の雰囲気には合った使い方だと思います。「惟任の妹さん」、くらいの軽い感じです。
辞書で調べても、なお議論していたんですかね?
2 キヨシについて
「五師職方日記抄」天正六年十二月八日条に「万仙ハ一段、信長殿、儀ヨシニシテ」と、記述されている。信長の側近である万見仙千代重元が有岡城攻めで討ち死にした記事である。同様な事例であろう。「ヨシ」をお気に入りと解しても、側室とするのはいかがであろうか。
御ツマキ考(1) - 信長熱
気-良し、もしくは気-好し、と字をあてて「お気に入り」である、ということから一足飛びに「側室」とか関係があったけど子をなさなかった、とかもうすっごい妄想力としかいいようがない。
ここへ来て、万見仙千代への使用例が見つかり、「儀よし」ではないか、と論考されている。ただ、気よし、儀よし、どちらをとっても意訳すれば「お気に入り」となるのは概ね異論のないところであろう。
むしろ、わたしが気になったのは惟任の妹も、万見仙千代も、その死にあたっての人物評価に「信長一段のキヨシにて」が用いられていることである。
もしかしたら、「○○一段のキヨシ(儀よし)」はある家臣が死んだときに顕彰するために用いる慣用表現ではないだろうか。史料をもう少し精査する必要があると思う。
もっとも天正6年の万見仙千代の働きぶりはいかにも信長好みというか、滅私奉公というか、休む間もなく働いている。家臣たちからの陳情もうまく捌いていたようだし、間違いなく「儀よし(手本になるような様子)」であったろう。この場合の儀は手本、くらいの意味。よしは、またまた辞書ですけれども、様子、という意味があります。名詞。いままではこれを形容詞ととっていますが、それでも気・よしで寵愛されているとか、ではないと思う。この時代(室町後半から安土桃山時代)に後世の「気がある」のような使い方があるか、なお、検討の余地はあろう。日葡辞書か。持ってないし。
さて、ではいったい光秀の妹はどこで死に、光秀はいつ知ったのか。書き手は誰からその話を聞いたのか。さらに考えていきたい。その上で、本当にこの女性がなくなったことが本能寺の変の遠因になったのかどうか、じっくりと考えていきたい。
この女性のプロフィール、ちょっと得意の妄想が始まってしまった。そんなことも書きたい。
まずは資料を集めてこないと・・・オツマキについては来週の木曜日頃更新いたします。
御ツマキ考(1)
『多聞院日記』天正九年八月廿一日条に
今暁惟任被歸了、無殊儀、珍重〃〃、去七日、八日ノ頃歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、
(今暁、惟任帰られ了んぬ。無殊の儀、珍重珍重。去る八月七日、八日の頃か、惟任の妹の御ツマキ死に了んぬ。信長一段のきよしなり。向州力落とすこと比類無きなり。)
早朝、惟任(光秀)殿がお帰りになった。特別の問題もなかった。めでたいめでたい。去る八月の七日、八日の頃か、惟任の妹の御ツマキが死んだ。(この女性は)信長の一際の「きよし」だという。光秀が力を落とすことはたとえようもないほどである。
(書き下し文と訳はしのき)
という文があり、この御ツマキなる女性をめぐっていろいろと論考がなされているようです。簡単に論点を整理すると。
1 勝俣鎮夫氏が「織田信長とその妻妾」*1で、御ツマキに言及。
- 明智光秀には御ツマキという妹がいた。妻姫という字をあてている・らしい。(要確認)
- その妹が七日か八日頃に亡くなった。
- その妹は「信長一段ノキヨシ」である、すなわち、信長の一際の「気好し」、寵愛されていたものだった。
- それゆえその妹は信長の愛妾として信長の意思決定に何らかの影響を与える存在であった。
2 勝俣氏以前には高柳光寿先生が人物叢書『明智光秀』のなかで、
(前略)『多聞院日記』の天正九年八月二十一日の条に、去る七-八日のころ、光秀の妹の御ツマキが死んだとある。この御ツマキというのは妻木某の妻ということであろう。このころ光秀は眼病で灸治のため奈良に行っている。*2
と言及しているのみである。
3 1を受け、池田裕子氏が人物叢書『織田信長』のなかで側室だったと書かれ(この人物叢書は立ち読みしかしてないのではっきりと覚えていない)、その後御ツマキ側室説はほぼ定着している観があった。
4 ところが最近、永田恭教氏が新書でかなり丁寧な論考を加えられている。ただ新書のためところどころよくわからないところがあるのは残念(ていうか、わたくしが前提となっている諸氏の論文を読めばいいんですね、はい)
「五師職方日記抄」天正六年十二月八日条に「万仙ハ一段、信長殿、儀ヨシニシテ」と、記述されている。信長の側近である万見仙千代重元が有岡城攻めで討ち死にした記事である。同様な事例であろう。「ヨシ」をお気に入りと解しても、側室とするのはいかがであろうか。またツマキの前に「御」がついていることから信長側室説を補強するものとする見方もあるが、「多聞院日記」は写本であり、「御」と「ツ」が古文書上では同じような字体なので、二回同じものを書き誤ったものであろう。*3
そして、キヨシ=儀よし、という新説を打ち出された。また側室という位置づけについても疑問を投げかけられている。
やはり同じ用例があるというのは強みであり、万見仙千代は男であるにも関わらず、儀よしが使われているのであるから、一足飛びに側室へ結びつけることはいかがか、と言うことだろう。
ざっくりと概観したが、現在、論点は「御ツマキ」と「キヨシ」の解釈に絞られているように思う。それについて自分なりに思うところがあるので、言及しつつ、御ツマキという人を考えてみたい(続く)
ところで「五師職方日記」とは、いかなる資料でしょうか。国会図書館のオンラインデータ検索で探したんだけど見つけられませんでした。どなたか教えてくださいまし(´;ω;`)